「今日は参加者の常識と違う話になります」という前置きから講演が始まりました。
戦後、日本人の食生活は急激に欧米化した。野菜や海産物にご飯という永年にわたる伝統食から、油脂、乳製品、肉といった脂肪やたんぱく質を多量に摂る食事になり、また、粉食であるパンの人気も高い。どうしてこのような大きな変化が急速に起こったのだろうか。そこには、戦勝国であり輸出国であるアメリカと、敗戦国であり輸入国となった日本、それぞれに事情があったのである。
一方は、持て余していた余剰農産物を提供することによって、『将来にわたって、確実な輸出先を確保する』という一大政策であり、一方にとっては、食糧難、財政難にあえぐ中での物資は非常にありがたいものであった。また当時日本は、国民の体位向上のため欧米型食生活への転換を目指しており、両国の施策は一致し、以後、アメリカから大量の農畜産物を輸入し続けることとなる。
アメリカは将来を見通した戦略を開始した。
その頃の日本人にとって、乳製品に油、粉食の食事は馴染みの少ないものであった。そこでアメリカは援助金を出し、小麦粉と大豆を使った料理を紹介して全国を回るキッチンカーと、パンとミルク主体の学校給食を実施した。
体位向上には欧米型食生活への転換が必要と考えていた日本栄養士会は全面的に協力し、油を使う中華料理の紹介、洋菓子の普及、パン職人育成にも励み、アメリカの思惑を後押しする形となった。戦後の『栄養改善運動』は、貧弱と考えられていた日本人の体位を欧米人並みにするためのものであった。栄養素は万遍なく摂取しなければならないとされた。ことにカルシウム、たんぱく質の摂取には熱心であった。
海産物でダシを取り、季節の野菜やワカメ、豆腐などを入れた味噌汁と、発酵食品である漬物にご飯という伝統食を、動物性たんぱく質である乳製品や、肉・卵の畜産物、油脂、パンに変えていった。
パンの原料である強力粉、家畜の飼料、油脂を絞る大豆はほとんどが輸入である。かつては一〇〇%であった大豆自給率も、現在ではわずか二%となっている。飼料にいたっては、日本人が年間に食べる穀類の三倍にあたる二八〇〇万tをアメリカから輸入しているが、飼料とせず、穀類のままで摂取するなら南の飢えは解決するとも言われている。
伝統食は、島国であり、多湿の日本に合ったものである。それは日本人の体質にも合致している。戦後の短期間での目覚ましい体位向上は異常と言える。
体質に合わないものを体内に摂り入れた結果が、アレルギーであるアトピーや花粉症などと考える。乳酸菌も、昨今もてはやされている動物性のヨーグルトより伝統的な植物性の発酵食品の方が合っている。伝統食をないがしろにし、喧伝されるままの高たんぱく、高カルシウム指向の日常食への考え方に対して危機感を持っている。
質問から
問・伝統食は、栄養のバランスという点ではどうなのか?
……油は、味噌汁として大豆から、糠と胚芽のついた分つき米、玄米から摂取できていたので、ことさら摂る必要は無かった。『栄養のバランス』という言葉はトリックがあり、万遍なく食べなければいけないと思わされている。基にしているのは欧米型の多種類の食品である。その食品の産地を考慮していない。また、それだけでおいしい米に対して、麦は味が無く、他のものを必要とする点も考える必要がある。
まとめ/会員 林 伸子
講演を聞いて…感想
「ご飯を食べないと力が出ん」と年配の方からよく聞く。私は、パンも米も同様に好むが年配の方は米をよりいっそう好む。それにおしんこと味噌汁だ。まさに日本人の原点である。それがなぜなのか?この講演でわかったような気がする。
五〇歳代以後の私たちが小学校時代の給食はパンと牛乳を中心としたものであった。知らなかったわけではないが、このパンの原料がアメリカから輸入された小麦粉である。「十二歳までに食べたものは、一生の食生活を決める」というアメリカ戦略が我々をパン好きにしたこと、それがこの講演の主なところだ。当時日本は高度成長期。団塊の世代が食べ盛りの時期を迎え食糧はあることに越したことはなく非常に日本は助かったともいえる。しかし、その付けが今になって欧米型の病気やアトピー、はたまた食料自給率の低下で今やアメリカからの食糧輸入無しにはこの日本は成り立たなくなってしまっている。
人間が生きて行く源「食」。今こそ日本人型食生活に見直さなくてはならないときではないか。 (会員 秋郷伸一)
前号では市民公園案の足がかりに、この地の特徴と重要性について述べました。
今回はさらに一歩進めて、私たちの会で一昨年一年間かけて実施し、作成した「天覧山・多峯主山の自然環境調査報告書」から見えてくる市民公園案作成の為の重要ポイントをまとめてみました。
また今回初めて、それを資料にして会員を対象にした意見交換会も開きました。
(一) 保護区の核となる野生動植物
●保全の対象
動物…オオタカ、イモリ、ホタルなど
植物…ナチクジャク、ハンノウザサなど
植物群落等…照葉樹林、スダジイ林、モミ林など
(二)保護区域の範囲
立ち入り禁止措置も含めた保護区域設定
●環境の整備
以下を整備し、ビオトープの復活を図る。
・ハンノキ林の保全と創造
・水路の修復と水生生物の生育場所の確保
・天覧入りの一部の湿地を復元し、木道による自然観察路を新たに作る。
・湿地の乾燥防止とヤナギの除去
(三)景観上重要な地域
●保全の対象…天覧山・多峯主山山頂、神久山、太郎坊、天覧入りの湿地、稜線沿いなど
●環境の整備
・天覧山・多峯主山山頂の見晴らしを良くする
・神久山、太郎坊のピークの整備・
・天覧入り下流部の湿地化と木道の整備
・稜線沿いの景観維持、里山景観の創出
・アカマツ林の復活など
(四)歴史的・民族的景観の保全
●保全の対象…黒田家の墓、多峯主山山頂の経塚、常盤御前、よしだけ、見返り坂、宝経院塔、遺跡、
●環境の整備
・御岳神社、羅漢像
・畑跡地の保全と解説
・水路の護岸(本郷入り)の修復
・木馬道、段々畑
・史跡の案内板
(五) 自然学習・環境学習上必要な整備
●環境の整備
・自然観察路の整備
・観察ポイントでの案内板、樹木の名札付け
・天覧入りの湿地と木道
・ビジターセンター
・トイレの整備(エコトイレ)
・天候急変時の避難場所の確保
・自然観察路脇の園芸種・外来種の除去
・乾性(尾根沿い)湿性(谷津田)の遷移見本
●ガイドブック・人材の養成
・ガイドマップ、セルフガイドの作成
・当地の自然をガイドする人の養成
・対象年齢別(知識と発達段階別)自然観察プログラムの作成
・学校教育に対応したプログラムの開発
●普及・体験活動
・対象年齢別自然観察会
・外来種除去の啓発活動
(六) 里山体験
林 業
●環境の整備…作業道の整備、、木馬と木馬道の復活、整備
●普及・体験活動
・植林地の手入れ、間伐体験
・間伐材の利用(木工芸)
・版画・ろくろ・箸作り等落葉樹材の利用
農 業
●環境の整備…作業小屋、堆肥場、まぐさば
●普及・体験活動…谷津田の再興(棚田での水田耕作)・雑木林の手入れ
・畑、まぐさば、炭焼き、シイタケ栽培
・きのこ、山菜などの山の恵み
(七)「障害者とともに活用できる」
●環境の整備
・案内板・樹木の名札などに点字を併用
・車いすで利用可能な木道や自然観察路の整備
●ガイドブック・人材の養成
・専門知識のあるスタッフとの協力体制障害者向けの自然観察プログラムの作成
●普及・体験活動…障害者向けの自然観察会・障害者とともにする活動・交流
<この報告を基に自由な意見交換をしました>
◆県の「県民休養地計画案」では天覧入り上部は外されているが、含めて考えるべき。
◆この地域の自然は、できる限りいじらないでほしい。何もしない自然のままがいい。
◆車椅子で入れるなだらかなスロープを作り、障害者や老人も入れる自然公園ができるといい。ただし、車椅子が通れるには舗装しなくてはならず、その点が問題。
◆何も手を加えない自然を残すことと、道を作ることは相反するように思うが…。
◆二者択一とせず、状況に応じて判断を。
◆昔の里山はくまなく人間が活用し、手を入れてきた。ナラ等を十年から十五年で伐るサイクルで成り立っていた。まさに農業あってこその里山。今は担い手がいない。
◆現在の状況では、「里山の復活」は、ボランティアで担っていくしかない。
◆現在、里山はブーム。地元ブランドのお茶や野菜を作るとか、地域の特色を出せれば、都会から人を呼べる可能性がある。
◆天覧入りに木道を作ることに賛成。体の弱い人も入りやすくなる。個々に魅力的な場所を作れば人も呼べる。それが次につながれば、結局は山全体の保全が進んでいくことになると思う。
◆木道は蛍の里に入れる位の規模がいい。
◆天覧入りの希少種がある所は原則保護という観点から、慎重に事を進めるべき。
◆希少種保護の為に保護禁止区域などを定めると、かえって盗掘などが心配。
◆真っ先にできることとして、一八一号線から見返り坂までの四つの尾根道を整備し、誰でも歩け楽しめるようにしたら、東京の小学生の遠足などに活用してもらえる。
◆建物を作る時は飯能らしい景観を大切にし、できる限りコンクリートを使わず、自然にやさしい素材を使い、道も舗装せずチップを撒くなどしてほしい。
◆市民環境会議の場などで、この地域の保全と活用について積極的に議論し、市民、行政、地権者が合意できる保全の手だてを見つけていってほしい。
◆街づくりという大きな視点で、天覧山・多峯主山一帯をどう位置づけ、どう守っていけるかを考えていくことが大切。
※ いかがでしょうか・・・。ここに載せたのは、意見交換のごく一部です。今後、市民環境会議をはじめ、さまざまな場で、もっともっと議論が深められ、さらに具体性を持った「市民公園案」を行政や地権者と話し合っていけることを願っています。
飯能から車で三〇分、越生町の田んぼと畑に通い始めて一年になる。稲作も畑作も全く初めての体験だったが、繁茂する草や多種多様な虫たちに振り回されながらもそれなりの収穫を得た喜びは大きかった。田も畑も無農薬で、さらに一部不耕起栽培を試みているので、草も多く、たくさんの虫たちで大賑わいだ。鳥でも獣でも同じだが、増えすぎなければ虫には本来害虫も益虫もない。
ところが、多くの生き物の中にはあまり有り難くない連中もいる。イナゴは、苗の時から収穫までずっと田で生活しているが、致命的な害を及ぼす虫ではない。根切り虫や豆の芯食い蛾は、数は多くなくても致命的な被害を及ぼす。多くの生き物がいることは有り難いことだが、場合によっては退散願わなくてはならないこともある。
田植えが済んで、苗が根付いた頃からは歓待するカルガモも、苗代では防鳥ネットの上に乗りネットの編み目から種籾をついばむ。五羽、十羽ではかわいいスズメも、五〇羽、百羽ともなると事情が異なる。人が近づくと稲穂の間から一斉にスズメが飛び出し、近くの電線や木の枝で様子をうかがっては、人が立ち去ったすきをみて再び稲穂の波に飛び込む。鳥には防鳥ネットが有効だが、全面に張るには経費と手間の負担がとても大きい。
そして、最も手強い動物がイノシシだった。最初に現れたのは収穫間近の田で、近所の方に教えられて初めて気づくほどの軽微な被害だった。一度下見に入られた場所を放っておくとやられてしまうと教わり、シシよけネットを張り巡らした。一部張り残した狭い田には、その後イノシシが数回入り、収穫は半減した。イノシシは稲を踏み倒し、稲穂から米をしごきとる。
田の次には畑に現れた。サツマイモの畝が一部掘り返されたのだ。忙しさも手伝ってしばらく放置したのが災いし、「明日収穫しようね」と畑を訪れた日、畝のあらかたは無惨にも掘り起こされ、周囲には黒光りする糞がまき散らされていた。この日は、明日の芋掘りを楽しみにしていた子供たちと、一転して悲しみの「シシの食べ残し掘り」になってしまった。その後、あわててネットを張り巡らせたが、ほんの少しの隙間から何度も侵入された。この時初めて鳥獣被害を受けている農家の痛みを自分の痛みとして感じることができたと思う。野生動物にはかわいそうかもしれないが、人家や舗装道路に囲まれた農地に出没して作物を食い荒らすことをおぼえた個体に対しては、何らかの方法で撃退する必要を感じる。わなで捕獲することは有効な手段の一つだが、これには免許を必要とするので、年内にわな猟免許の取得を考えている。
イノシシの生態と防ぎ方については、江口祐輔著「イノシシから田畑を守る」農文協が参考になる。 (会員 遠藤夏緒)
二〇数年前に出会った北米先住民のシャイアン族の村で出会った女性は、こう言った。「この世は美しく張られたクモの巣なんだ。どの糸が一本切れても巣の形はゆがんでしまうんだ。」と。彼女はまた、こうも言っていた。「人間以外の生きものが幸せでない時、人間も幸せにはなれないんだよ。」と。
SARSの流行、狂牛病、鳥インフルエンザ、異常気象、子どもに対する暴力などなど、身の回りで起きているさまざまな異変を見聞きするたびに、彼女の言葉がよみがえってくる。
切れたクモの糸をつなぐのは人間の仕事。人間が切った糸だから。でも、私たちの今の暮らしは自然から遠く離れてしまって、どの糸が切れているのか、どう直したらいいのか、判らなくなってしまっている。
今こそ自然に学び、自然に即して生きることが大切なのではないかと思う。 ( すずきひろこ )