都心から飯能に越してきて三ヶ月。幼少期の自然体験の欠落、空白を埋めるかの様に、暇をみつけては天覧山・多峯主山に入る毎日を送っている。
そして、身近にある自然と戯れる喜びを、生まれて初めて覚え始めた。繰り返し自然の中に入るうち、これまで茫漠とした遠景でしかなかった動植物の姿が、俄にくっきりとした輪郭と、鮮やかな色彩を持つ、生きた存在として視界に飛び込んで来る様になったのだ。その美しさ、可愛らしさ、時に奇妙で滑稽なさまに私は魅了され、日々胸をときめかす。決して手に入れることの出来ない彼らとの、一瞬一瞬の出会いには、まるで触れ逢おうとも成就することのない「恋」の様な切なさも覚える。
自然を観察し、溢れ出てくる疑問について、調べたり教えて頂いたりして、少しずつでも答えを得てゆくことはとても楽しい。なんとかして彼らとの距離を縮めたくて(それが錯覚であることは承知の上なのだが)
必死なのだ。
先日のこと、守る会の先輩会員である、ある女性と電話でお話する機会があった。彼女は「私にもそういう時があったわ。見るもの聞くもの全てが新鮮で、驚きに満ちていて」と、とてもはずんだ声でお話しして下さった。かつての彼女の体験が時を経て、今そのスタート地点に立つ私の想いに重なり、強く胸に響いて来た。そして何より励まされた。また、このような先輩の存在をありがたく思う。
名を知らずともその美しさに感動することは確かに出来る。いつか私にも知的な好奇心は消え去り、名も忘れ、ただその姿を楽しむなんて時が来るのかもしれない。でも今はまだ、正直言ってちょっと欲張り。感動と知的な欲求どちらも満たしたい。そして、それを可能にしてくれるフィールドが、飯能にはほんとに身近にある。私にとってこれ以上の幸せはない。
5月5日の第三回里山まつりの感想を、神奈川県相模原市から参加してくれた氏家雅人さんと、「SUARA」の皆さんから頂きましたので、報告かたがたご紹介します。
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相模原市に住む僕にとって、飯能市では市民会館のすぐ裏手に、素晴らしい谷戸が開発されずに残っていることに驚きました。
野鳥の声、清水がわき出る谷戸、雑木林に囲まれた里山での祭りは、そこにいるだけで気持ちの良いものでした。サムルノリに始まり、音楽、演劇、そして東北の舞踊に終わる出し物は里山の風景にとけ込んでいました。
この里山が開発の危機に瀕していることは、とても悲しいことです。地域住民の宝物を何とか守れるよう、遠方から祈ります。そして来年も、再来年も、十年後もこのお祭りが続いていることを願います。里山の自然を壊さない程度に参加者が増え、もう少し色々な出店などがあると、祭りとして充実するなあと思いました。
僕も昨年から谷戸の保全のため、谷戸田の共同耕作や炭焼きに加わっています。すごく小さな身近な谷戸だけれども、野鳥・草たち・斜面林・そして昔ながらの田畑がある風景は、心のよりどころになっています。自然と人間が、昔ながらのつき合い方で作り出す「里山」の生態系は、現代人にとっての「癒し」になっていると思います。
5月5日の里山まつりは、とても良いゴールデンウィークの一日になりました。
諏訪沢(すわさわ)は、天覧山に沿って流れる小さな沢です。その水源となっている、神久山(神久山)から天覧山へと続く尾根に降った雨は、尾根を境に北は天覧入り、南は諏訪沢へと流れます。流れは一部休耕された狭い水田を通り、ニコニコ池から諏訪神社、そして入間川へと注ぎます。
小さな谷となっている諏訪神社の脇には、在来の自然植生であるタブやスダジイ、アラカシ、ヤブツバキなどの照葉樹林が今もわずかに残り、沢沿いの林床には、春にニリンソウやホウチャクソウの花も見られます。神社境内にはケヤキの大木にムササビも住みつき、夏鳥のアオバズクの姿を見ることもあります。市民会館駐車場の東沢では、毎年この時期になるとカワセミが崖に穴を掘り、餌運びする親鳥の姿が見られていました。しかし今年は市民公園の造成が始まり、カワセミの住処は石積みの三面護岸へと変わって、その姿を見ることは出来ませんでした。
駐車場から道路を渡り、天覧山の入り口に見える池がニコニコ池です。以前はもう一つ北側に池がありましたが、今は埋め立てられ諏訪沢が流れ込む上下二つの池だけとなっていす。下流の池は底がコンクリートで覆われているため、昔見られたヌカエビやスナヤツメ、クサガメなどの生き物は今では殆ど見られなくなりました。
天覧山の登り口を右手に休耕田へと下ると、沢沿いの土手にはオカトラノオが白い花を付けヒョウモンチョウが訪れています。畦道ではコジャノメやヒメウラナミジャノメが忙しく飛び回り、その上をヒガシカワトンボがヒラヒラと舞い、カサスゲの葉に留まりました。トンボの横にはクサイチゴが真っ赤に熟し、彩りを添えています。
4月16日、飯能中央公民館で「藤前干潟を守る会」の代表、辻淳夫さんをお招きして講演会を行いました。15年にもわたる市民運動の結果、公共事業をストップさせたことは、多くの点で今後の私達の運動の参考になると思われます。以下藤前干潟を守る運動を紹介します。
☆藤前干潟とは
藤前干潟は、名古屋に残された広さ約120ヘクタールの干潟です。三年前、あの諫早湾が「ギロチン」で閉め切られてからは、日本一シギやチドリの飛来する場所です。この干潟を、名古屋市のゴミの埋め立て処分場にしようとする計画(84年6月)を撤回させたのが辻さん達の運動です。
☆市民運動の立ち上げと指針
名古屋港最後の鳥達の餌場を守り、ゴミ問題にも積極的に取り組もうという人々の思いから始まりました。自発的で無償の活動は、超党派・全方位・現場主義を貫き91年6月、市議会への十万人署名請願へと到ったのです。結果は約半分の規模への縮小にとどまり、94年1月にはアセスメントの手続きが開始されたのです。
☆「準備書」を破った科学論争
96年7月に出された「アセスメント準備書」では、結論に合わせるように環境への影響は小さいとされ、「驚くべき」評価が羅列されていました。辻さん達は野鳥・干潟・大気汚染などの専門家に「準備書」を送って科学的な意見書をもらい、自ら実証したデータと併せ、公聴会で科学的な批判を展開し、評価のやり直しと代替案の検討を求めたのです。
名古屋市側の「周辺干潟が利用できるから影響は小さい」という主張を「全ての干潟が干出して採餌可能なとき、干出時間の短い藤前干潟に95%のシギ・チドリが集中する」ことを、公開調査で実証して論破しました。また、干潟の浄化能力を示す生物量を、市側は深さ10?分の採泥調査で測っていました。これに対して深さ数mの巣穴に棲むアナジャコの存在を示すなど、その不当性を示したのです。
こうした科学的データが一部の審査委員に認められ、追加調査の要求になり「影響は明らか」という、今までにない審査結果をもたらしたのです。
☆最後の難関「人工干潟」
ここまで来ても保全は決まりませんでした。審査主体で事業主体である名古屋市市長の諮問機関である審査委員会が「人工干潟案」を出してきたのです。市側は生態系を無視し、土木的発想だけの案を「評価書」に添付してアセス手続きを終了させ、埋め立て申請手続きに入ったのです。
98年12月5・6日に「JAWAN」(日本湿地ネットワーク)が開催した「国際湿地シンポジウム98藤前」で、環境庁自然保護局の課長が「人工干潟は生態系を破壊するもので、考慮に値しない」と厳しい発言をしたのです。これを受けて12月11日に、許可権を持つ運輸大臣が「環境庁がダメだと言ったらできない」と発言。ついに打つ手がなくなった名古屋市は、翌99年1月8日に「五年間は南五区を使い、最終的な処分場はポートアイランドとする」代替案を決定>
こうして藤前干潟は守られたのです。最後に、雑誌の記事から辻さんの大変心を打つ言葉を紹介します。『環境問題に勝ち負けはない。自然の恵みを享受するのも、生存基盤を壊されて苦しむのも、同じ地球に生まれた私たち自身をふくむすべての命なのだから』
この言葉を胸に、天覧山・多峯主山の自然を守って行こうではありませんか。
藤前干潟は私にとって大変思い出深い場所である。諫早湾の締め切りによって日本最大の渡り鳥の飛来地になった干潟を、何と人間のゴミでつぶすという暴挙に驚き、一九九八年十二月名古屋で開かれた国際湿地シンポジウムに参加した。初日、名古屋市が提案している人工干潟は考慮に値しないという環境庁の小林課長の発言は、出席者全員を喜ばした。その夜、真夜中に渡り鳥の観察会が催された。干潟はようやく残された都会のオアシスといった感じで、想像以上の人工物に囲まれていた。それにも拘わらず一生懸命餌をついばんでいる鳥の群に感激した。そして干潟を守る人たちの暖かい歓迎は今でも忘れられない。翌日、辻さんの訴えを聞き、地元のマスコミの取材に嬉しそうに応じている辻さんの姿があった。その辻さんをお呼びすることになり大変なつかしく思った。辻さんのお話はOHPを駆使し、具体的でかつユーモアがあり楽しい一時を過ごさせていただいた。
渡りをするために1.5倍も体重を増やすことやプラネタルムで実験して分かるように、星空を羅針盤にしていること、種類による行動の違い、そして市のアセスメントに対応するための調査でアナジャコが見つかるなど本当に運が良かったこと、何よりも今子供たちの遊ぶ姿が印象的であった。運動を進めるためにあらゆる手段・智恵・人脈を活用し、さらに運にも恵まれ干潟は守られた。運動は地域を越え、世界の人々を結びつけた。とにかく粘り強くあきらめないこと、楽しく続けることなど我々の運動にも役立つお話であった。結局自然を守るということはつきつめれば人間の生き方の問題だと思う。
東京蜘蛛談話会では天覧山において1998年5月17日を皮切りに、同年7月12日、10月18日、1999年2月21日の計4回にわたり定例の観察会を行った。その結果合計30科140種が記録され1981年度の30科150種を下回った。リター層の調査をさほど熱心にやらなかったし、直前の台風の影響(当日朝まで決行が危ぶまれた)で10月の種数が伸びなかったため実際はもっと多いかもしれないが姿を消したのが43種、新記録33種が示すように約20年間に環境も変わり、地球温暖化の影響もあってクモ相が変化したと考えた方がいいだろう。事実北上傾向にある南方系種が新たに3種(シロカネイソウロウグモ、トビジロイソウロウグモ、オダカグモ)が記録される一方、北方要素を持つ2種(ツノオニグモ・前回記録あり、キンヨウグモ・今回初めて)も記録され、昆虫同様南北両系統が混在するのが特徴といえる。それでは天覧山のクモ相を代表するクモをいくつか紹介しよう。
まず地中性のクモで扉付きの住まいを作ることで知られるトタテグモ類が3種記録された。このうちカネコトタテグモ、キノボリトタテグモは前回も見つかっているが、キシノウエトタテグモは新記録である。トタテグモ類が3種揃って記録される場所は少ないが、住居の発見が難しく今回は『その道のプロ』約二名の活躍で棲息が確認された。なおキシノウエは多種と比べクモタケ(俗に言う冬虫夏草の一種)という菌類の規制率が著しく高く、梅雨時に紫褐色の胞子を付けた柄を伸ばすので逆にクモの存在がわかることもある。このキシノウエとキノボリは国内レッド候補種(準絶滅危惧種)でもある。
ヒメグモの仲間には腹部の形がユニークなものが少なくない。腹部がツクネイモ(ヤマノイモ)に似ていることからその名がついたツクネグモもそうだし、同じ属のハラダカツクネグモははそれに輪をかけて奇妙な形をしており、腹部が黒くて突起が多く上方に高く隆起している。ただしどちらも体長2?前後と小さく、余程注意していないと見つけ捕りは難しい。蛇足ながら前者は地もと飯能市の焼鳥屋さん(別につくねが名物というわけではない)、後者は本庁のお巡りさん(犯人よりクモの逮捕が得意)が採集した。埼玉県では飯能市北側(西吾野)に次いで記録されたオダカグモは黄白色の美しいクモで、ヒサカキなどの広葉樹をビーティングして得られたが、横から見ると腹部が三角形でその名の通り後端が上に突出している。以前は珍種と言われたが、ここ数年発見例が増えつつあり分布も北上傾向を示している。
コガネグモ科では初夏見返り坂付近の湿原にチュウガタコガネグモが網を張っていた。近縁種のコガネグモより一回り小さく、腹部の黄色い横縞が中央で不連続になっている点が異なる。どちらかと言えば山に多く生息密度も低い感じだが、統治ではそれほど広くない範囲に4?5頭見られたのが目についた。前後に2本ずつX字状に脚を揃えて網の中央に君臨する姿は風格さえ漂わせる。一方コガネグモの成体を確認できなかったのが残念である。北方系種のツノオニグモは腹部前縁の両側、つまり『肩』の部分が著しく外へ突き出ているのでその名がある。これもビーティングで得られた。この他では天覧山登山口の公園に山地性のマルヅメオニグモが見られたのが興味深かった。
秋に広葉樹の葉裏に潜むアシナガグモ科キンヨウグモは腹部が紫褐色で前方に一つ、中央に数個数珠状に連なった黄金色の斑紋を持つ日本的で優雅な美しいクモである。うっかりしていたが埼玉県初記録であった。最近小川町の金勝山でも記録されるのは珍しい。
以上天覧山のクモについてかいつまんで説明してきたが、特別珍しいクモこそいないもののなかなか面白いクモ相であることが多少なりともおわかりいただければ幸いである。
更地だった庭に少しずつ草木を植えたお陰で、今では小鳥が立ち寄ってくれる程になった。椿の花のまわりにはメジロがよく戯れている。レモンの木からは、毎年数匹の揚羽蝶が孵化している。ウッドデッキの下には、二年前から大きなヒキガエルが住みつき、夕方の水撒き時には必ず挨拶に現れる。
トカゲには毎日お目にかかれるし、花が咲けば自然に蝶や蜂が集まってくれる。こんな小さな庭でさえ、私達に十分安らぎを与えることができるのだから森や林ではどうだろう。私のまわりの人達も週末になると歩きに出かけていると言う人が多くなった。そして月曜日には「山は良かったよ」と元気に出勤してくる。沢山の生き物が棲息している森。いつまでも変わらずに残しておきたいですね。